流域のひとびと
せまい流域の耕地で
ひたすら有機農業に取り組む愛農一家
「農人の使命は人々のいのちをまもるためのもの」
と無農薬裁培を理想とし
採算本位にはしる営農のありようを憂え
聖書持つ手をふるわせる
素朴な語り□
頑丈な身体ときよらかなこころ
私の求めるみずいろの水を
この家族に見る思いがしてならなかつた
序に代えて 著 者
本宮隈畔
鈴木宗吉氏は1918年(大正7)字下町に生まれ、本宮小学校を卒業した。
1938年(昭和13)軍隊に招集され、以後7年間中国各地を転戦し敗戦を迎えた。
1946年5月復員し、字荒町で木工所などを営んだが、弟たちの教育が一段落した1957年(昭和32)、少年時代から好きだった画作に専念するため上京、洋画家渡辺治郎(白沢村出身)に学んだ。
1968年(昭和43)新鋭作家選抜最優秀新人賞を受け、翌年には現代形象展に招待出品、1970年旺玄展に初入選し、以後入賞を重ね、旺玄会会員となった。
1978年「みずいろの水をもとめて」シリーズ第一作“阿武隈川素描”55点を発表(最初は『福島民報』紙上)、以後「福島の湖沼を探る」(1980年)、「諏訪湖とその周辺」(1982年)、「北上川青々流転」(1983年)、「多摩川賛歌」(1986年)を次々に発表して大きな反響を得た(これらはいずれも画集として出版された)。
その後も「みちのくの仏の道」シリーズ(1990年)を発表し、その後「東北の祈りと祭り」シリーズをライフワークとして取り組んだ。
旺玄会第56回展(1990)の「廃絶の残像‐北限の文楽・高倉人形」、同57回展の「修羅」も注目を集めた。
シリーズものは水彩が多いが、油彩も数多く制作している。旺玄会会員としては1982年(昭和57)に委員・審査員、1986年に常任委員、1989年(平成元)に代表委員となり、名実共に同会の顔となった。ヒューマンな社会派モチーフを追い求め、虚飾のない「個なるものへの挑戦」を続けた。「芸術は個なるもの、教えられるものでも教えるものでもない」とは彼のくちぐせであった。
1992年(平成4)5月、故郷本宮町に帰り、鳴瀬に新居をかまえた。
2002年(平成14)に83歳で亡くなる。
(本宮町史から抜粋引用、現時点での説明内容にするため一部改変)